宝石の国を読んで

今更ですが最近「宝石の国」というコミックを読みました。
(すいません、にわか過ぎてどの程度の情報がネタバレになるのか分からず、最新話まで追いついてない方はネタバレ注意かもしれません。)

本作は市原春子さんの描く漫画で、人類の死後、人間の形を模した「宝石」たちが、「月人(つきじん)」と呼ばれる月からの刺客と戦っていくも、最終的には彼らと同一の祖先を持つために何やかんやコミュニケーションを取ることになっていく、というお話です。
(「最終的には」と書きましたが、未完結の作品なので現時点で終盤にいるのかどうかなんて分からないんですが…。)

話のあらましからして結構ぶっ飛んでいるのですが、本作品のキャッチーで可愛らしい宝石達の絵柄や、どこか掴みどころがなくふわふわしている月人たち、そして宝石故にボディーが欠けたり粉になったりというアブノーマルな描写、加えて本作品の根底にある仏教的な死生観(宝石も月人も概念的には不死身なんですが)、無常観が組み合わさり凄まじい吸引力を持つ作品です。さらにさらに、作品の随所に見られるシュールなやり取りもまた程よいスパイスになっています。
実際、身体を構成する鉱石の性質に沿った登場人物の個性や、ストーリーの幹に流れる奥深い仏教思想がマニアの心を掴んで離さず、既に緻密な考察が重ねられています。

とまぁ、一応本作をご存じない方向けにそれっぽい紹介文を載せてみましたが、ここから先は私が読んでいてよく分からなかった部分についてお話ししようと思いますので、本作を知らない方はふーん、という気持ちで読んでいただければと思います。本作を知っている方であれば、どうか私に正しい解釈を教えていただければ幸いです。

本作のテーマである仏教といえば「輪廻転生」という考え方がまず頭に浮かびますが、私は宝石や月人たちが「これから輪廻に帰される話」なのか、「輪廻の外に出ようとする話」なのかという部分が良く分かっていません。
宝石や月人たちは概念的には不死の存在であり、物語の節々で彼らが私たちとは違う価値観で動いているのが分かります。このように、「彼らが不死であること」にスポットを当てるのであれば、「祈りによって一度死を迎えることで、輪廻の環の中に飛び込んでいく」という話になると思います。(エクメアが度々「無に帰る」と言っていますが、彼だって体験したことのない世界な訳なので、本当に「無になる」かどうかは分からないのでは、と思ってしまいます。)
この考え方を採用する場合、今後のストーリーとしては、新たに「人間を超えた存在」として君臨するフォスの治める世界へ宝石や月人たちが転生していく、みたいな感じに収まるのでしょうか?

一方別の見方として、彼らは人間が滅亡した後の世界、つまり「死後の世界にいる」と捉えるのであれば、彼らは既に終わりのない輪廻の渦中にあり、祈りによってそれを克服、超越していく、という見ることができます。
こう考えると、この話は仏教的考え方から一歩外に出て、新たな世界へ羽ばたいていく話であるように感じます。ただ、ストーリーとしてはフォス以外の全員が消失することになるので、ちょっとバッドエンドっぽくなっちゃいますね。

こうやって対比してみると、「結局輪廻の理からは逃げられませんでした」という思想的には行き詰まりに陥るような場合であっても、ストーリーとしては主人公フォスの孤独は解消されることになり、いい感じに大団円を迎えることができる(ように見える)一方で、「見事輪廻から解放され、真の自由へと到達した」という思想的な進歩を実現した場合、どう足掻いてもフォスはアイ・アム・レジェンドされることになり、ストーリーとしてはかなり報われない最後になる訳ですね。(まぁアイ・アム・レジェンドは生存者がいましたが。)

エクメアの口ぶりからすると、後者のストーリーな気がするのですが、それにしては月人や宝石が不死であることが強調されまくっており、これから輪廻に帰るのか?と疑ってしまいます。
また、エクメアの本名がエンマ(閻魔)であることからも、本来地獄の沙汰を言い渡す存在である彼自身が無に帰されるのはなんとなく不自然な気がしてしまいます。
もしかしたら、彼はこれからも人々を輪廻に導く存在として君臨し続けるのかもしれませんね。

ということで、にわか読者の私がイマイチ消化しきれていない「宝石の国」をリポートしてみました。誰か詳しい方がいらっしゃったら見解を教えていただければと思います。
そしてもしこの記事を見て「この話は敷居が高そうだ」と感じた方。ご安心ください。本作は現在再開未定の休載中なので、どれだけでも読み込む時間があります。笑

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