「期待しない」という諦観:思うようにいかなくてもイライラしない魔法

先日、少し時間を持て余していたので、せっかくならと思い近所のビアカフェに行きました。
いや、正確には行こうとしたんです。
お店のSNSでは15時開店ということだったのでそれに合わせて行ったところ、”Closed”のパネルが。少しお店の中を覗いていると、お店の人が出てきて「まだ準備できてないです」とのこと。
何時くらいに開きそうですか?と伺ったところ、「まだしばらくかかる」と一蹴されてしまいました。

情けない話、私はこういうトラブルがあると結構イライラしてしまい、それを引きずってしまう質の人間なんです。
しかも、それが今回のように自分に落ち度がない原因だとなおさらカチンときてしまいます。
お店の人からすればお前のプランなんか知ったこっちゃねぇよと思うかもしれませんが、それはそれとして、時間通りにお店を開店できないことに対して少しくらい申し訳なさそうな素振りを見せてくれたっていいんじゃないかおい、そもそもいつ開店するかくらいの目処は立てられるんじゃないのか(怒)?、と考えれば考えるほどドロドロした感情が首をもたげてきます。

と、ここまで読んでいていい気分にならないエピソードを語ってしまいましたが、この話にはもう一人登場人物がいます。実はこの時一人でお店に行こうとしたわけではなく、妻も一緒でした。
で、妻はどうかというと特段イライラする様子もなく「じゃあ別のとこ行こっか」と、LIGHT WINGの天谷吏人も真っ青な刹那の切り返しをしていました。
おかしい。片やこの話で今後1週間は愚痴を言えるくらいドロドロしているのに、その雲一つない青空のようなクリアマインドはどこから来るのか。
色々その後妻と話したのですが、その違いは「他人に期待しない」というところにあるようでした。

そもそも私のイライラは、「他責事由で」「自分の期待していたことが叶わなかった」ということに起因しています。
この2条件を満たさなければイライラも多少は緩和されると思うのですが、まず前者の「他責事由で」という部分は私個人の努力ではどうしようもありません。
(念には念を入れてお店に行く前に電話してみるという努力もあったかもしれませんが、全ての事象に対して「自分にも責任があったのではないか」という自己責任原理主義だと鬱っぽくなるのでやめます。)

で、後者の「自分が期待していたことが叶わない」という部分ですが、突き詰めると、自分の中に「こうしたい/しなければ」というプランがある故に、そのプランが成就することを期待してしまうというメカニズムになります。
私のような執着質なタイプはプランを立てるとそれに囚われてしまい、当然のようにその成就を期待してしまうのですが、どうやら私の妻のようにバランス感覚が優れた人だと「プランを立てる」ということと、「その成就を期待する」ということは全くの別モノのようです。

ではどうしたら「期待しない」という境地に至れるのか。極論を言えば、プランを立てなければそれを期待することもなくなるわけですが、日々生活していく中で大なり小なりプランを立てるのは避けがたく、「プランを立てない」なんていうのは非現実的です。
これを踏まえ、プランを立てることそれ自体は肯定することとしますが、「成就を期待しないプラン」なんて完全に机上論で、そんなものはプランとも言えないように思います。

どん詰まりかに見える状況ですが、ここで「なぜプランに固執するのか」を考えてみます。

これを紐解いてみると、(あくまで私個人の感覚ですが)プランを立てた時、ピッタリとパズルのピースが当てはまったような気持ちが湧き上がります。「今日はこれしかない、これこそが今日という日にふさわしいプランだ」という気持ちです。
例えば冒頭のエピソードに当てはまると、「今は少し時間がある。だからと言って遠出する気になれないが、家にいたいわけでもない。カフェに行って時間を潰してもいいが、ただのカフェではなく、少し気分転換できそうなカフェがいい。そうだ、近所にビアカフェがあるではないか。そこでカフェインを摂取し、気が向いたらビールでも頼んでのんびりしよう。おぉ、これこそが私の求めていたものだ。」というちょっとした「納得感」です。

この「納得感」が曲者で、プランを練り上がったときは気持ちいいのですが、その反面うまく行かないと「さっきの納得感はなんだったのか」という「がっかり」に変わってしまいます。
というわけで、この「納得感」こそが「期待」の正体だという結論に至りました。
なので、「納得感が低いプラン」であれば期待しなくて済むし、がっかりしなくて済む。ということになるわけですが、この一文だけ読むと「自分が納得していないプランを実行する奴がいるのか」というツッコミが入るでしょう。

ここでいう「納得感」というのは「これしかない!」という思い込みが含まれています。
したがって、「納得感が低いプラン」というのは、不本意なプランということではなく、「まぁいろんな選択肢があるけどとりあえずこれかな」くらいのふんわりとしたプランだと捉えていただければと思います。
プランはあくまで目標、しかもそれ自体「最善で唯一の目標」というわけではなく、数ある選択肢の中の一つのルートであるに過ぎず、別にそれが全てではない。だからそのプランが成就しなかったとしても別にいいや、という精神ですね。

ここまで考えてみて自分のスタンスを省みると、私は一度プランを立てたら、それが考え抜いた上での最善のプランだと思いがちだと気づきました。だから自分の考えたプランに価値があると思いこみ、その成就を期待してしまうわけですが、思い出を振り返ると日常生活や旅行なんかでプラン通りにいかないことも多々あり、だからと言ってそれが台無しだったかと言われるとそうでもないなと思い至りました。
そもそも私自身判断力や先見の明に優れた人間ではありません。なのでそんな人間が立てたプランが、他の何を差し置いても最善であるなんてことは言えません。うまくいかなかったとしても腹を立てるほどのプランでもないんです。

そんな諦観が自分の中に少しだけ芽生えてきたような気がします。

ここまで長々と語ってしまいましたが、以上が私の思う「期待しない」という処世術になります。
言うは易しで、なかなかこの通り行くことはないかもしれませんが、それこそ思い通りにいかなかったからといって落ち込んだりする必要はないんです。期待する必要はないのですから。

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