鯨墓

瀧本トオルという男を思い出すとき、僕は必ず鯨について考える。
正確に言えば、老いてその海を泳ぐことを諦めた、死して横たわる巨大な鯨だ。
もちろん、僕は彼が中学校時代に好んで履いていたスニーカーや贔屓にしていたサッカーチーム、これまでに付き合っていたガールフレンドとのあれこれといった、全てのことを知っている訳ではない。あくまで極めて個人的な階層で、僕は彼にそのような印象を抱いているに過ぎない。
したがってもしかしたら、彼のマンションの隣人は彼を生き急ぐリスのようだと形容するかもしれないし、旧知の友は獲物を狙いすますフクロウのようだというかもしれない。

それでも僕は、彼のことを考えるとき鯨の遺骸について考えてしまう。

海で寿命を迎えた鯨(奪われた、という場合もあるだろう。)はひっそりと泳ぐことをやめる。二度と自由に海を泳ぐことは叶わず、あとは潮の流れに導かれるまま徐々に深海へと沈んでいく。
しかしただ沈んでいくのではなく、その身体は腐食していく過程でゆっくりと他の生物への栄養素を提供していく。その皮や肉はサメやタコの食料となるだけでなく、骨や脊髄液も、余すことなくあらゆる生物の恵みとなる。海上からの光が射さない暗闇ではそんな鯨の死骸は比類なきオアシスになる。生存環境として非常にシビアな深海においてはそれ自体が一つの閉鎖的なコロニーを形作る。
鯨はただ横たわり、コロニーに住み着く生物は黙々とその身体から養分を吸い上げる。彼らの存在はまるで墓標のように、鯨がそこに鎮座していたことを静かに、しかし強かに語っている。
「ひとりのマッコウクジラ、ここに眠る。彼は我々の
良き母親であり父親であり、良き友であった。生前の彼の人生が素晴らしいものであったことを祈る。」

鯨の遺骸について思いを巡らすとき、僕は自分の愚かさを突きつけられ、ただ間抜けな顔で唾を飲むことしかできない。
手の届かないところをゆっくりと通り過ぎていく人々は、僕に何かを残していく。そのくせ僕は過ぎていく彼らを黙って見送ることしかできない。
僕はいつも間に合わない。
瀧本トオルという男について考えるとき、僕はそんなことを考えている。

タイトルとURLをコピーしました