その白い森は確かに存在する。ただしどこにあるか分からない。
正確に言えば、昨日までそこにあったからといって今日もそこにあるとは限らないし、明日は今日と違う場所にあるかもしれない。
ただしその白い森は同時に2つは存在しない。したがって今そこにあるということは、この星の他のどこにも存在しないということである。
そんな森を探して数多くの旅人がこの大陸を彷徨っている。まるで何年も獲物にありつけていない飢えたオオサバクコヨーテのように切実に、後がなく、そして生きるために。
彼らは生まれてから一度も白い森を見たことがなく、それにもかかわらずその森を探さずにはいられない衝動に駆られていた。遺伝子にそう刻みつけられているかのように。
一人の旅人がいた。彼は9つで親元を離れて以来、43になるその時までずっと白い森を探し求めていた。
あるときは切り立った崖を四肢を使って這い上り、さらにその上の荒れ果てた丘をほとんど転がるように踏破し(彼の手足は痛みでほとんど動かせなかったのだ)、またあるときはほとんど水中にいるかのような湿潤な空気を抱き込む鬱蒼とした熱帯雨林のなかを、オオテナガバチに刺され、コウモリヒルに吸いつかれながら彷徨うこともあった。
全世界で歩いていない場所はない、そう自負する彼ですら未だ白い森の噂は聞けども、足を踏み入れることはできなかった。
ところがその夜、彼は思いがけず白い森の真っ只中にいた。その日は探索を終え、ボロボロになった身体を癒すためにとある街で薬を仕入れた帰り道で、その日中に定宿に辿り着くはずだった。
それでもその日は帰れなかった。彼は見渡す限り草原が広がる一本道を歩いていた。ふと靴紐が解けていたのに気づき屈んだだけだった。ただそれだけの合間だったのに、再び立ち上がるとその旅人は白い森の中にいた。
異様な白さ。踏みしめている土や生い茂る草花、そして木の根元から幹、枝葉に至るまでの全てが白く、まるで視界を奪われたようだった。さっきまで夜の帷に小さく開けた穴から漏れ出す光のような月だけが唯一の光源だったはずなのに、この森は真昼の太陽のように明るい白だった。
彼はあまりに突然のことに立ち尽くしていた。何も考えられなかった。
今は決して寒くない時節なのに、その森は吐いた息がそのまま凍ってしまうような空気で満たされている。流水がじきに動きを止め凍りついてしまうように、その森に流れる冷気は流れる時間さえも永久に凝らせてしまうようだった。空気の微かな振動さえも息をひそめ、物音ひとつしなかった。
もはや彼の身体は動かなかった。彼の肉体は間違いなく今ここの白い森にあるはずなのに、彼の魂は未だ森を探して世界中を飛び回っているようだった。あるいは彼の魂だけが予定通り定宿に辿り着き、肉体はこの森に流れる時間と一緒に固まってしまったようだった。
ゆっくりと時間をかけ、彼の肉体は衰えていった。身体は痩せこけ、関節は節くれだつ。赤い血潮は澱んでいき、体の末端から白く濁っていった。やはり彼は何も考えていなかった。ただ黙って、自身の身体が枯れ木のように乾いていくのを感じていくほかできなかった。
森は彼を飲み込み、そしてまた消えていった。そこには何も残されなかった。彼の生きた証も、朽ちた痕跡も、そこでは何も起こらなかった。